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蔦がほどける夜 ⑥

last update 最終更新日: 2025-08-21 20:47:56
 リノアは毛布を肩まで引き寄せて、もう一度だけ周囲に視線を巡らせた。

 闇の奥に何かが潜んでいる気配は、まだ残っている。だが、その数は少なく、動きもない。少なくとも今は、こちらの様子を伺っているだけのようだ。襲撃の兆しはない。

 エレナ一人で見張りを任せるには、十分な余裕がある。

 明日に備えて、今は眠ろう。

 リノアはエレナに背中を預けるようにして、そっと瞼を閉じた。

 焚火の音が遠くの沈黙を際立たせている。

 その音に包まれながら、リノアは眠りへと身を委ねた。

 疲労が身体にじわじわと染み込み、意識が夢とうつつの境へと沈んでいく。

 リュカは無言のまま、背を丸めて横になっていた。迷いも警戒もなさそうだが、眠りに落ちるまでの時間は長そうに見える。

 リュカは目を閉じながらも、耳だけは森の音に向けていた。その呼吸は浅く、意識の一部はまだ戦場に残っている。

 焚火の光がリュカの頬を照らし、影がゆっくりと形を変えていく。

 夜は深まり、火は静かに燃え続ける。

 エレナは焚火の傍らでじっと座っていた。

「ねえ」

 リュカの声が火の音に紛れるように響いた。

 エレナは顔を上げず、焚火の奥を見つめたまま耳を傾ける。

「どうして私を助けたの? ほっとけないって言ってたけど、敵を助けるなんて……そんなの聞いたことがない」

 しばらく、火の爆ぜる音だけが返事の代わりに空気を埋めた。

 エレナはゆっくりと息を吸い、言葉を選ぶように沈黙を保った。

「敵だからとか、関係がない」

 ようやく口を開いたその声は、焚火の熱とは反対に冷えていた。だけどそれは、本当の冷たさではなく、過去の痛みに触れた者だけが持つ言葉だった。

「あなたが、あのまま誰にも手を伸ばされずに終わるのを、私は見過ごせなかっただけ」

 リュカは何も言わず、ただその言葉を受け止めた。

 しばらく沈黙が続いたあと、エレナが小さく息を吐いて言った。

「こっちも聞いて良い?」

 焚火の音に紛れるような、穏やかな声だった。

「答えたくなかったら、答えなくても良いけど……あなたは、どこから来たの?」

 リュカの肩がわずかに動く。

 問いに反応したというより、何かを押しとどめるような仕草だった。

 言いあぐねているのか、リュカは中々、口を開かない。

 だが、何も答えないままではいけない。そう思ったのか。リュカは一言だけ言葉を発した
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